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2018年作成:新・広島大学のサークルの歴史はこちら
鋭意改訂作業中…
目次
はじめに
総論1 広島大学の設置~大学紛争前
総論2 大学紛争~五者会議の成立・役割
総論3 大学移転計画~文化・芸術系サークルの現状
総論4 それぞれの連合組織について
各論 47項目/250項目
はじめに
これまで、広島大学の文化・芸術系サークルの歴史は本格的にまとめられたことはありませんでした。大学の公的なところを調べてみても、サークルに関する古い資料は残っていません。サークル棟に残っている古い資料も、ほとんどがホコリまみれで、いつ捨てられてもおかしくない状況でした。私たちは、「せっかくの資料が失われてしまう前に、文化・芸術系サークルの歴史を調べよう」と、2009年ごろから資料の収集を始めました。
今回の調査では、比較的資料の残っている五者会議所属団体のサークルを中心にまとめ、いずれの連合組織にも属さないサークルのほとんどは対象外としています。
2010年の「ゆかたまつり」では、途中経過発表である「文化・芸術系サークルの歴史展」を行い、入場者数約250人を記録しました。
なお、掲載している内容に誤りがあるかもしれません。お気づきの点は、 Twitterなどからお知らせください。
追記(2018/06/11)
2018年5月に中央図書館 地域・国際交流プラザにて新入生歓迎企画の一環として、 これまでの結果を元に新たに2000年~2018年の流れを加えて「新・広島大学のサークルの歴史」として発表しました。
総論1 広島大学の設置~大学紛争前
広島大学の設置から教養部学友会結成まで
広島大学は、1949年5月31日に広島文理科大学などを包括し、設置された。広島文理科大学などの前身校におけるサークル活動としては、キリスト教青年団(文理科大学)や、写真部(1945年以前から存在)、演劇研究会(1947年創部?)などが記録として残っている。また、廣島高等學校の1927年度校友會誌には、体育系のクラブと並び「辯論部」「文藝部」の記載がある。これら前身学校の学生団体やサークルは、広島大学の設置後も活動を続け、さまざまな学生団体の結成に影響を与えたとされている。
1949年10月26日には、広島高等学校を前身とする皆実分校(教養部)に「教養部学友会」が結成される。教養部学友会が結成されると、多くの団体はそこに所属した。
教養部学友会と体育会結成運動
教養部学友会は、教養部生(1,2年生)を会員をとする一方で、教養部学友会に所属する体育系クラブの幹部は非教養部生(3,4年生)であった。こういった矛盾や、学友会の運動部関係予算への不満などから、1958年ごろより第1次体育会設立運動がおこった。当初は「運動部員のみを会員とする運動部の連合体」を目指すという意見が強かったが、予算・組織力の観点から「全学生・教職員を対象とする」体育会を目指すことになった。この運動は、当時の学生準則を超えた「全学部を包括する組織」を目指し、設立にかなり近いところまで進んだが、1959年3月21日の補導協議会で「継続審議」(事実上の打ち切り)が決定し、第1次体育会設立運動は終わることになる。こういった「体育会設立運動」は他の大学でも見られ、東大・京大・阪大・北大などの旧帝大では昭和20年代末までに、自治会から独立した「体育会」が設立されている。
その後、1960年には8つの運動部が中心となり、文化系サークルも含めた全学的なサークルの集合体の設立を目指す「課外活動協議会設立準備会」が結成されたが、これについては大学・学友会ともに消極的・否定的な見解を示した。
この状況を打開するため、1960年6月6日に「体育サークル連盟」が結成される。1961年には教養部が千田町に移転した。1962年の夏の主将会議を皮切りに、第2次体育会設立運動がはじまった。1963年9月27日には補導協議会にて、「体育会設立」を大学の最高決定機関である評議会にかけることが決まり、同年10月8日には評議会で体育会設立が承認された。そして同年11月2日、体育会発会式を迎えた。これをもって、体育会は教養部学友会から分離独立したことになる。
体育会結成については、「体育会史」も参照されたい。
音楽サークル協議会の結成
1963年11月2日の体育会発足・教養部からの独立は、文化系サークル、特に音楽系サークルに大きな衝撃を与えることになる。マンドリン同好会の部長と音楽研究会(DISC協会、後に室内合奏団が分離)の部長は、体育会独立に対抗するために音楽系サークルの連合を作ろうと活動を始め、1963年度中には「音楽サークル協議会」を結成する。初代委員長にはマンドリン同好会の部長が就任し、学友会からの独立運動を進めていくことになる。一方で、音楽研究会の部長は学友会執行委員に当選し、学友会対策を行っていった。形としては1963年度中には成立していた音楽サークル協議会だが、他の文化系サークルからの強い反発により、体育会のように新入生から直接集金を行うということはできなかった。
※学友会についての補足説明
当時、学友会は「教養部学友会」だけではなく、各学部にも設置され、その各学部の学友会に所属していたサークルもあった。たとえば、水畜産学部学友会には「囲碁部」「書道同好会」「自動車同好会」「ヨット部」「柔道部」が所属していたという記録がある。なお、教養部学友会には、新聞会、体育会(後に独立)、文化部があり、文化系サークルの多くは、この教養部学友会文化部に属していたことになる。
総論2 大学紛争~五者会議の成立・役割
大学紛争と学友会の分裂
1968年1月に東大紛争が始まる。その1年後の1969年1月9日には、広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)が結成され、広島大学における大学紛争がはじまる。紛争によって、最終的には学友会文化部が解体し、現在の5者会議体制へと向かっていく。
教養部学友会文化部は1969年4月15日、19時過ぎから24時過ぎまで、数時間にわたって大学会館3階にて文化部会を開き、サークル活動の在り方をめぐって討論が行われた。この日の文化部会の終了後、集団暴行事件があったという記録もある。
また、4月18日にも文化部会が開かれ、「芸術集団闘争委員会結成準備会」から文化部解体宣言が提出された。審議の結果、一度目は過半数に達しなかった(賛成10、反対9、保留3)が、再度審議した結果、賛成14、反対3、保留5にて可決された。
可決の翌日には、「広島大学文化部」名で「封鎖命令」などが各サークルに配布された。このとき設立された芸術集団闘争委員会(芸闘委)では、美術集団や演劇集団など、芸闘委の下で活動する9つあまりの再編成された文化サークルの存在のみがみとめられた。これは、学園闘争に積極的でないサークルを締め出そうということであった。その後、多くの文化系サークルでは内部で様々な議論が巻き起こり、闘争へ積極的にかかわろうとした団体、学外へ活動の場を求めたもの、分裂したもの、活動を停止したものなど、さまざまだった。
解体に反対するいくつかのサークルは、1969年4月22日、文化サークル連絡協議会準備会を設立した。これには、部落研、中国研、茶道部、室内合奏団、YMCA、うたう仲間、学生奉仕団、広大障害者問題研などが参加した。同年6月14、15日に文連協準備会が主催した新入生歓迎集会には、十数のサークルが参加した。
なお、このころの状況については資料が少ないため、いくらか誤りがあるかもしれない。上記の文章と矛盾する記録や、事実確認をとれなかった記述について、参考のため以下に列挙する。
○当時「文化サークル連盟」という組織があり、それが解体して一つの芸術集団となった、(合唱団の25年記念誌)といった記述があるが、詳細不明。芸闘委との関係も不明。
○芸闘委に締め出され、学内での活動ができなくなったことに危機感をおぼえたサークルが「文サ」「文団」「音協」を結成した(音協の歴史)という記述がある。「文団」については誤りだと思うが、紛争中すでに文サや音協が存在していたのかもしれない。
○『現在の音協が設立されてはや2年あまり』『音楽サークルが文化部に属していた時から、音楽関係だけで団体を組織しようという気運があり、文化部解体を契機に、音楽を共通な要因とした組織を作り、それによってあの混乱期を乗り越えようとしたのであった。』(学内通信 No43(1971年2月6日))という記述がある。「2年あまり」という記述と文化部解体を契機に」という記述がやや矛盾するが、文化部解体以降、紛争解決前に音協は誕生したと考えるのがベターか?
紛争の終了、文化系連合の結成
1969年8月に、バリケード封鎖が解除されると、サークル活動も学外から学内へもどってくる。このころ、芸闘委から「文化サークル連合」(同年10月結成)や、「音楽サークル協議会」などが独立して誕生した、とする資料もあるが、詳細は不明。
同年12月17日には、学生集会所の配分決定が行われた。このときには既に「音楽サークル協議会」「文化サークル連絡協議会」「文化サークル連合」という3つの文化芸術系サークルの連合組織があった。なお、このころの学生集会所(いわゆるサークル棟)には、いずれの連合組織にも属さない「一般学生団体」も入居していた。
また、1970年2月に学生集会所の割り当てが再度(?)行われるのに際し、いずれの連合組織にも属さないサークルが連合を作る必要が生じた。これが、「文化サークル団体連合」前身組織結成の理由である。結成当時は、学生に権利を持たせようとしない大学側の体制を打ち破り(文団連資料による。)、BOXを確保するための利益団体であった(文団連サークル活動年鑑(1988年度版)による)。
音楽サークル協議会の全学組織化
1971年1月5日、音楽サークル協議会と学生部がリーダーズセミナーを共催する。ここでは、事業の拡大や予算についての話し合いがされ、全学的な会員制をとることが考えられたが、「まだ会員制については、時期が早いように思われる」(運営委員長)との結論に至った。
最終的に、1973年2月に、音楽サークル協議会は「音楽協議会」と名を変え、全学的な組織となる。なお、音楽サークル協議会が音楽協議会となったのは1973年3月だという記述もあるが、これは、規約の施行が3月1日からだったことによる誤りだろう。(規約の施行をもって音楽協議会への移行、と考えてもよいかもしれないが、運営委員長のあいさつでは「2月の音楽協議会の結成を…」となっているため、2月とした。)
五者会議の変遷と役割
1970年ごろに7つの団体が集まって文化サークル団体連合が結成されると、5つの連合組織(体育会、文サ連、文団連、文連協、音協)の間での連絡調整会議として、五者会議が開かれた。このころの文化系サークルの数は、全学団体として登録されているものが80、そうでないものを含めると約150に達していた。
その後、1973年~1974年の間に文連協が解散し、一時期四者体制となる。なお、解散した文連協のサークルのうち、一部は文団連・文サ連に合流した。1977年5月には、8つの夜間サークルが集合し、Ⅱ部サークル連合(Ⅱサ連)が誕生する。こうして、再び五者体制となり、これが長期間続くことになる。
当時の五者会議の大きな役割は、BOXの分配だろう。1971年ごろまでは、「200%方式」という方法によって、各サークル連合にBOXが分配されていた。これは、「各連合のサークル数」と「各連合の総員数」から分配する面積をきめるという方法だった。(100%+100%=200%)しかし、1972年にこの方式は見直されることになる。
総論3 大学移転計画~文化・芸術系サークルの現状
大学の移転計画と新サークル棟
大学が1969年5月に設置した広島大学改革委員会は、大学改革における3つの基本理念を掲げ、その実現を目指して「広い、統合されたキャンパス移転」を行うことを考えた。そして、1973年に西条が移転先として選ばれることになる。
1976年、生活環境専門委員会は「大学改革における3つの基本理念」の第2項目、「人間形成の場(→サークル活動の保障)」実現のため、20平米のボックス120室などを含むサークル棟12,300平米案を発表した。しかし、予算の関係などにより、この案の実現は困難となった。これに対し、1979年には文化系三者(文サ連・文団連・音協)が、必要最小面積として生活環境専門委員会にサークル棟3,500平米案を質問書として提出した。
しかし1980年、大学側は、文化系三者の3,500平米案に対し2,800平米案を回答した。これに対し文化系三者は、必要最小実質床面積として4,360平米を再計算し学生課に提出する。
1982年には、工学部移転と共に1,060平米の第一期整備分(文化系課外活動共用施設)が完成。1985年に、文化系3者が2,984.0026平米案を再算出したが、大学側は一度提示した2800平米を譲らなかった。なお、2800平米のうち、400平米は大学会館に、300平米は体育会サークル棟に確保されることになった。
※生活環境専門委員会とは
学生、教職員の生活環境全般について話し合う審議機関。事務官、教官、学生により構成される。当時、多くの委員会があったが、学生が参加できたのはこの委員会のみとされる。議決権はない。
移転の本格化と芸文連、西条五者会議
1978年、文団連は統合移転問題連絡協議委員会(統移協)を設立する(1986年廃止)。
1982年に工学部が東広島キャンパスに移転すると、多くのサークルが「西条支部」を設置した。また、文団連は、西条の新入生に向けたサークル案内の冊子も作っていた。
1984年、「課外活動運営に関する規程」が制定され、西条新サークル棟運営のために芸術文化課外活動共用施設連絡協議会(芸文連)が結成される。この芸文連には、五者会議のメンバーに加え、大学祭実行委員会、新聞社【原文ママ】、サークル連合には加盟していない文化芸術系のサークルが加盟していた。毎週1度、会議を行っていたようである。
1993年、総合科学部が西条に移転すると、多くのサークルはその活動拠点・本部を西条に移した。また、芸文連が解散し、その役割は西条五者会議に引き継がれた。西条五者会議では、東千田に残るⅡサ連に代わり、大学祭実行委員会がオブザーバー参加している。
1995年、大学の総合移転が完了すると、千田五者会議はその役目を終えた。
西条サークル棟の様子
文化・芸術系サークルの現状
90年代から00年代にかけ、多くのサークルが部員不足などから廃部に追い込まれている。この中には、40年以上の歴史を持ち、教養部学友会を経験したようなサークルも含まれている。
かつては連合組織全体での新歓行事や、球技大会、機関紙発行などを行うところが多かったが、現在ではそういったものはほとんど行われていない。また、連合組織には加盟していないが活発に活動を行っているサークルや、連合組織を離れ活動を行うサークルも多い(特にボランティア系サークルに多いように思える)。
サークル棟については古くから不満が多く、音楽系サークルは長らく「新サークル棟建設」「利用時間延長」を訴えてきた。利用時間については土・日の利用許可、利用時間の22時30分までの延長などがあったものの、新サークル棟についてはまだめどはたっていない。また、最近では吹奏楽団や交響楽団が新サークル棟建設、利用時間延長に反対の姿勢を示しており、音楽協議会の足並みは崩れてきている。
総論4 それぞれの連合組織について
五者会議について
1970年ごろ、当時存在した5つの連合組織(体育会、文サ連、文団連、文連協、音協)の間での連絡調整機関として起こる。代表は持ち回り制。1973~1974年ごろの文連協の解散により、一時期「四者会議」となるが、その後1977年5月のⅡサ連の結成により再び「五者会議」となる。また、大学の西条移転に伴い、Ⅱサ連が五者会議を離れ、代わりに大学祭実行委員会がオブザーバー参加し、現在の五者会議を形成している。
五者会議と似たような組織として、「二者会議」(文サ連と文団連からなる)や、「三者会議」(文サ連、文団連、音協からなる)も存在していたことがある。
最近の活動は、入学式オリエンテーションでのサークル紹介や、サークル案内冊子の配布など。
音楽協議会について
体育会発足・教養部学友会からの独立に対抗するために、1963年度中に前身の「音楽サークル協議会」が設立される。体育会と同じように、全学会員制を目指すが、他の文化系サークルからの強い反発により断念。大学祭にて「MUSIC FESTIVAL」という演奏会を行う。
1969年になり大学紛争がはじまり、学友会文化部が解体されたのを契機に、1969年5月(2月との説も)、新生「音楽サークル協議会」が設立される。この「音サ協」と、1963年度設立の「音サ協」とのつながり等は、資料が見つかっていないため今のところ確認できていない。
1973年には、名称を「音楽協議会」と変え、全学組織に移行。1974年10月ごろから会員へのギターの貸出などを行っていたが、現在ではおこなっていない。「全学組織」というのも完全に形骸化しているといえる。
主な活動として、年1回の合同演奏会「フェニックスコンサート」がある。これは「東広島市民のみなさんに音楽を通じて広島大学に親しんでいただこう」ということを目標に、1983年に第1回が開催された。1986年は、衆参同日選挙のため会場を押さえられず中止、1987年には第4回が開催された。(その後、年に2回開催する年などがあり、2010年には第31回を迎えた。)なお、昭和50年ごろには軽音楽系サークルの合同演奏会「PHONIX CONCERT」が開催されているが、おそらく繋がりはないだろう。また、音楽研究会のレコードコンサートも「フェニックスコンサート」と称していたが、こちらも繋がりはないだろう。
機関紙として、「アンサンブル」「かでんつ」「音協だより」「音協かわら版」などがあったが、現在はいずれも発行されていない。
1980年代をピークに、会員数は減少傾向を示していたが、新規加入サークルや軽音楽サークルの部員数の増加により、現在ではやや持ち直している。加盟サークルの総部員数は約800人、音協会員数は800~1200人程度と考えられる(2010年4月1日時点)。
≪現在の加盟サークル≫合唱団、パストラール、交響楽団、室内合奏団、吹奏楽団、ギタークラブ、マンドリンクラブ、邦楽部、ロック同好会、フォークソング部、ジャズ研究会、フェニックス放送、PDE
≪脱退サークル≫グリークラブ、吟道部、能楽研究会、ハワイアンズクラブ
文化サークル連合について
1969年10月結成(1980年新歓パンフ)。大学紛争後、芸闘委で活動していたサークルが集合してできたとする資料もあるが、詳細不明。東千田時代には、文サ連として大学祭で企画などを行っていたが、最近は行われていない。
「新入生歓迎パンフレット」によると、多くの学内問題にも取り組んでいる。(1989年「はり紙禁止措置撤回要求」や、1990年「スパイ事件に対する抗議」、1995年「学生生活に関する規定撤廃要求」など。特に「はり紙禁止措置撤回要求」では、1400名以上の署名を集めた。)
1972年には、文化系連合組織の中で最も多い会員数だったが、加盟サークル数の減少などにより会員数は徐々に減少。現在の加盟サークルの総部員数は100~200人程度と推定される(2010年10月1日時点)。
文化サークル団体連合について
大学紛争終了後の1970年2月に学生集会所の割り当てが行われるのに際し、いずれの連合組織にも属さないサークルが連合を作る必要が生じた。これがきっかけとしてできたのが、文化サークル団体連合の前身組織であると思われる。
発足当時は単なる利益団体だったが、1972年ごろには運営委員会が開かれる。その後、リーダーズセミナーや新歓行事などを行うようになってくると、運営委員会だけでは対処できなくなってきたため、1974年から代表者会議が開かれることになる。また、1975年には運営委員会を事務局に改組する。かつては、機関紙「飛翔」を発行していたが、現在は発行されていない。
1980年には、文団連の設置した立て看板に対し、体育会が「体育会批判だ」と反発する事件が起こる。立て看板の前で両者が激しい討論を行い、最終的に体育会が立て看板を撤去した。この立て看板の撤去に対し文団連は激しく反発し、体育会との質問状のやりとりが何回か行われた。
最大時には約30サークル・公称総会員数1100人が加盟し、文化系サークル連合組織の中では最大の規模を誇った。しかし大学の西条移転などの影響で、加盟サークル数・総会員数は大幅に減少した。加盟サークルの総部員数は約400人と考えられる(2010年4月1日時点)。
Ⅱ部サークル連合(東千田サークル連絡会議)について
1977年5月、8つの夜間サークルが集合し、できた組織。機関紙「星雲」の発行などを行う。東千田時代には五者会議のメンバーであったが、大学の西条移転に伴い、五者会議を離れる。1998~1999年ごろには「東千田サークル連絡会議」となるが、2002~2003年ごろに解散か。現在、東千田キャンパスにはサークルの連合組織は存在しない。
文化・芸術系サークルだけでなく、体育会系のサークルも加盟していた。黎明期の所属サークルとしては、フォークソング、コンパ研究会、社会学史研究会、シネマハウスなど。
文化サークル連絡協議会について
文化部解体に反対するサークルなどが集まって、1969年4月22日に「文化サークル連絡協議会準備会」を結成。同年6月14~15日には、準備会が主催する新入生歓迎会が行われ、十数のサークルが参加した。
その後、紛争後には「文化サークル連絡協議会」の名前が見られる。1973~1974年ごろに解散?し、文団連や文サ連に合流したサークルもある。
創設時から規模は小さく、加盟サークルは5つ程度、加盟サークルの総部員数も100人に満たなかった(1971年)。