かつて八本松に存在した引込線について

(17) 引込線路盤跡 2
2018/10/14 自身で撮影
一部は遊歩道になっている。川上弾薬庫の方を向いて撮影

公開日 2018/11/27

 かつて八本松(旧川上村地区)には国鉄八本松材修場と川上弾薬庫(こちらは今も現役)の2つの施設が存在し、そこまで八本松駅から引込線が引かれていました。今は見る影もなく、路盤跡が道路として利用されていたり僅かに遺構が残るだけですが、本稿ではその現状をレポートしたいと思います。

注意

 Wikipediaの八本松駅のページには引込線の名称として「呉海軍軍需部川上火薬庫線」、「八本松材修場専用線」が挙げられていますが、裏付けが取れなかったため、本稿ではただ「引込線」と呼称しました。

川上弾薬庫

 旧日本海軍、のちに駐留米軍の弾薬庫。弾薬保管能力は約4万トンとされる。弾薬野積み施設は50ヵ所以上あると言われ、1ヵ所の規模は縦30m、横18mで、これを高さ6~10mの土塁で囲み約1,000トンの弾薬が貯蔵できる。面積はおよそ2.6平方キロメートルで広島大学東広島キャンパス(2.5平方キロメートル)とほぼ同じ広さ(東京ドーム55コ分)。その規模は極東最大とも言われている。

-沿革-
昭和15年(1940) 06/08 海軍から土地の買収を求め話合いが持たれ、宗吉地区43世帯の立退きが決定
昭和15年(1940) 07/31 弾薬庫に通ずる鉄道用地の買収のための協議会が開かれる。15人の土地が買収、7人立退き
昭和15年(1940) 08/26 鉄道用地の境界標識が設置
昭和20年(1945) 10/– 連合軍(英・豪)に接収・後に米軍の管轄へ
昭和34年(1959) 02/28 一時閉鎖
昭和42年(1967) 10/28 ベトナム戦争のため弾薬輸送再開
昭和45年(1970) –/– この頃まで鉄道で弾薬が輸送されていたらしい
昭和45年(1970) 06/12 米軍弾薬輸送の安全確保につき町長、議長が呉防衛施設局へ陳情
平成12年(2000) –/– 不用となった弾薬の処理作業を開始
平成23年(2011) 08/18 騒音に伴う防音工事が決定

国鉄八本松材修場

 日本陸軍兵器補給支廠跡に開設され、昭和24年(1949)~昭和43年(1968)の間操業された。敷地は約78平方メートル、従業員は100名前後。主な作業はレールの接合で、500m、1,000mという継目のないレールを作り、主に関西以西、中国、四国、九州で使用された。現在(2018年)は(株)オンドの工場となっている。

-沿革-
昭和14-19年(1939-44) 日本陸軍兵器補給支廠、引込線用地として収用
昭和23年(1948) 02/– 旧陸軍兵器補給支廠跡地に工事開始(敷地、建物、引込線など利用)
昭和24年(1949) 02/– 材修場 開場式
昭和26年(1951) 10/– フラッシュバット(火花衝合式熔接)導入
昭和27年(1952) 03/– 一応の工事完了
昭和28年(1953) 04/– 施設完成
昭和43年(1968) 02/16 材修場 閉鎖
昭和60年(1985) 11/– 記念碑建立
昭和61年(1986) 04/– (株)SHARP 第3工場を建設
平成29年(2017) –/– (株)SHARP 第3工場の売却を決定
平成30年(2018) –/– (株)オンド 八本松東工場 開設

ギャラリー

(1) 衛星写真(2007年撮影)(画像クリックで拡大)
地理院タイル(全国最新写真)を合成の上加筆 ( http://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)

参考資料

ゆかた・大学祭展示企画へ

調査・研究報告へ

活動記録へ